中国の陶磁器の歴史

やきものの種類

狩猟採集生活から、農耕牧畜の定着生活に移行した新石器時代、人類は土をこねて形をつくり、火で焼き固めて丈夫なものにすることを発見しました。焼物には、土器、炻器(ストーンウェア)、陶器、磁器 があります。日本やヨーロッパでは、粘土を成形して焼くのが陶器、長石分の多い陶石という石の粉と磁土を混ぜて成形するのが磁器と呼びますが、中国では焼成温度が1000度以下の焼物を陶器、1000度以上のものを磁器と呼んでいます。また、中国では釉薬のかかった焼物はすべて磁器と呼んでいます。ヨーロッパ式に考えると青磁は陶器になります。ウエッジウッドのジャスパーウェアは炻器になります。

新石器時代(紀元前6500~紀元前1500年頃)

中国で土器が作られたのは紀元前7000年頃といわれています。同じ頃オリエントでも土器文化が始まっています。紅陶、彩陶、黒陶、白陶などが造られましたが、一般の生活には灰陶と呼ばれる、実用的な灰色の土器が多く用いられました。

殷(15世紀BC-10世紀BC)、周(11世紀BC-256BC)、国(770BC-221BC)、秦(221BC-210BC)

釉薬は一般的には木灰釉で、灰釉は1000度以上の高火度で溶けてガラス質の皮膜となり、焼物の器表を覆います。水漏れを防止し、耐久性を強める効果があります。中国では殷・周時代の施釉陶器を原始磁器または原始青磁と呼んでおり、春秋戦国時代に発達しました。また、印文硬陶という施釉されないストーンウェアも使われていました。春秋戦国時代の原始磁器は青銅器の器形や文様を忠実に写しています。

戦国時代には、焼成した灰陶に赤や黒や白などの絵具で彩色された加彩陶器が作られています。中国では、俑と呼ばれる墓にいれる陶製の人形が多く作られました。

有名な秦の始皇帝の兵馬俑は、灰陶に赤、黒、白などの彩色が加えられた加彩陶器で、等身大の兵士や将軍、文官、武官、馬が始皇帝陵を取り巻く地下坑の中に整然と配置されていました。

漢(202BC--220) 

原始磁器の停滞時代になります。この時代に実用品として使われていたのは、金属加工製品と漆器であり、陶器はまだあまり使用されていませんでした。

墓の副葬用に鉛釉陶器(鉛に酸化銅を加えると緑釉陶器、酸化鉄を加えると褐釉陶器になります)で、楽人、舞人、料理人、農民、家屋、犬など、バラエティに富んだ俑が作られています。

三国(222-280)、晋(265-316)、五胡十六国(304-439)、南北朝(439-589)

器表にたっぷりと青磁釉がかけられ、安定した青緑色の発色をした高火度焼成のやきものを青磁といいます。三国時代になると、急激な生産増加と発展をみせます。三国時代は墓の副葬品でしたが、南北朝時代に生活器が中心となり、広い地域に広がりました。

三国時代に俑の副葬は少なくなりますが、南北朝時代になると鎮墓獣やシャーマンなど宗教的俑が加わります。仏教が興隆した時代なので、彫刻的にすばらしい俑が作られています。

隋(581-618)、唐(618-907)、五代(907-960)

鉄分の少ないカオリン質の高い白い素地に、不純物の少ない精良な灰釉をかけ、高火度で焼成したやきものを白磁といいます。6世紀後半から華北地方で焼き始められ、隋時代に生産が盛んになります。唐の時代は「南青北白」と呼ばれ、南部には青磁、北部には白磁を焼く窯が多かったようです。

唐三彩は白磁に緑釉、褐釉、藍釉、白釉など複数の色釉をかけ合わせたもので、8紀前半に副葬品として盛んに作られました。人物、馬、ラクダ、家屋、生活器(壷など)があり、ラクダの上に歌手や楽隊が乗ったものもありますが、すべて副葬用であり、墓室に通じる道の壁面に設けられた小室に収められていました。三彩俑だけではなく加彩俑や金彩を施したものもあります。王陵墓では1000体を越す俑が副葬されました。しかし唐時代後半には、俑の副葬が急激に衰えます。 


北宗(960-1127)、金(1115-1234)、南宗(1127-1279)

宗時代は文化、芸術が最も発達した時代であり、国民の生活は豊かになりました。中国全土に陶磁窯が築かれ、独自の特徴を持った焼物が造られました。

長沙窯は古くから青磁を生産していました。鉄や銅を使って花文や鳥文を柚下に描いた独特のものもあります。

越州窯も古くから青磁を生産し、輸出の中心になっていました。朝鮮の高麗青磁は越州窯の影響を受けています。日本の奈良・平安時代の遺跡からも大量に出土しています。

磁州窯は中国最大の窯で、日常生活品すべてを作りました。鉄分を含んだ粘土に化粧土をかけ、その上に透明釉をかけた陶器が基本ですが、装飾法は多彩で、青磁や白磁に比べ絵画的な意匠を積極的に取り入れているのが特徴です。金時代には白化粧した地に鉄絵具を用い筆で花や鳥、人物、山水、魚藻などすばやく描いた白地黒花装飾が流行しました。12世紀には白磁の上に低火度で溶ける鉛釉を用いて文様を描き再度焼成する五彩という技法が創案されています。

定窯は北宗の白磁の中心であり、周辺が石炭生産地だったので、燃料は薪から石炭へと変化しました。そのため、白磁の色は黄みがかった発色となりました。焼成法も伏し焼きで、口縁に釉をかけないため、焼成後に盤の口縁に金や銀や銅の覆輪をかぶせたものがあります。

耀州窯は唐草や蓮弁の浮き彫り風に彫りこんだ独特な青磁があります。金時代にはオリーブ色をした青磁が多くなります。

釣窯は、金時代に、青磁釉銅紅釉を加えることによって、複雑な発色を可能にしました。

龍泉窯では南宗時代に青緑色の美しい釉色の砧青磁を完成しました。国内向けの日用雑器ばかりでなく、宮廷用に釉薬の厚い青磁も焼いており、周辺アジア諸国にも青磁を輸出していました。日本では鎌倉・室町時代に唐物として非常に珍重されました。

景徳鎮窯では磁土と釉薬に鉄分を含んでいるので、青みのある白磁ができます。装飾はシンプルで、軽く、器種もさまざまで、国内向けの日常雑器の他、アジア各地に膨大な量が輸出され、エジプトの遺跡からも大量に出土しています。

南宗時代の特徴的な黒釉磁器に天目茶碗があります。天目山に修行をした日本の禅僧が持ち帰った茶碗が黒釉碗であったころから天目茶碗と名付けられました。
結晶が白く浮かび光で虹色に輝く建窯曜変天目黒釉地に木葉を貼り付けて焼いた吉州窯木葉天目などがあります。

元(1271-1368)

モンゴル人クビライの征服した帝国は北京を都とし、支配圏はユーラシア大陸全土に広がりました。モンゴル民族による交易、市場の確立は中国の陶磁器の名声を広めることになります。

青花は14世紀前半に景徳鎮窯で誕生しました。白磁の釉下にコバルトで絵付けをし、透明釉をかけて高火度で焼成した彩画磁器で、コバルトは焼くと青く発色します。主なコバルトは中近東から輸入されました。元時代の青花の特色は大作が多く、緻密さがあり、イスラム圏に多く輸出されました。

景徳鎮では他に、コバルトを全面にかけた瑠璃釉磁、銅紅柚を全面にかけた紅釉磁も作られました。

龍泉窯では飛青磁と呼ばれる斑点文様を施した青磁も作られていました。

磁州窯では白地黒花陶器や、黒花に褐彩、緑彩を加えた五彩風陶器が作られますが、もっぱら国内向けでした。

明(1368-1644)

技術力、生産力ともに秀でていた景徳鎮だけが着実に発展を遂げる中、宗や元の時代に優れた作品を焼造していた窯の多くは活動を縮小していきます。明時代も景徳鎮の主流を占めるのは青花で、元時代よりも器形はシンプルになり、菊や牡丹など唐草を多用した文様に、余白を多く取る構図となりました。青花はイスラム圏への主用貿易品となり、橘皮文と呼ばれる釉面に細かくかすかな起伏のある優美なものが作られます。

青花と同じ技法ですが、銅の顔料を用いて文様を描く釉裏紅も14世紀中ごろに多く焼造されました。明時代末期にはオランダ東インド会社との貿易も行われ、輸出磁器生産が盛んになりました。

青花は民窯でも作られ、日常品としても需要を伸ばしました。15世紀頃に文様の背景や場面の転換に独特の雲形を描く雲堂手と呼ばれる作品があります。

明時代後期になると、白磁や青花を焼造しその上に鉛釉を用いて文様を描く五彩が景徳鎮窯の主流を占めるようになります。絵筆を用いて文様を描き、赤、黄、緑の色調と、開発された紫、黒などが加わり、華麗な施彩がおこなわれるようになります。輪郭線を青花で描き、輪郭線内に透明感のある色釉をうめて再度焼成する技法は豆彩も焼造されました。上絵顔料で文様を描いて焼成した後、金箔を貼り付けて文様を表した金彩は、日本にも多くもたらされ金襴手と呼ばれて珍重されています。

清(1616-1912)


清の建国に伴う動乱の中で、景徳鎮は戦乱に巻き込まれ、生産は大幅に停滞しました。

康煕官窯が、青花、釉裏紅、五彩の中心になります。

ヨーロッパの科学技術に興味を持った康煕帝の命により、景徳鎮において研究開発されたものに粉彩(ガラスの粉末を顔料としたもので、五彩の顔料が焼成を経てガラス化することで色彩が得られる)と琺瑯彩(すでに発色している色ガラスの粉末に鉛粉を混ぜて作られる顔料は、絵付けの段階で色彩が把握でき、焼成で色彩を定着させる)があります。この顔料は絵画の顔料と同じように絵付けをすることができるもので、宮廷画家などが動員され、皇帝の趣向に合った、質の高い純粋絵画が陶磁器文様の主役になりました。初めは素地に直接七宝風な絵付けをしていましたが、後に滑らかな釉上にも施彩可能になり、花鳥、山水、竹石が描かれ、余白に文様に適した詩句が流麗な文字で記されるようになりました。顔料も臙脂紅や白色顔料が開発され、特に白色は下地顔料としても用いられ、微妙な色を表すことが出せるようになります。色釉も研究され、漆器や銅器などの忠実な模倣作品が作られました。

19世紀になると国力の低下と同時に、陶磁器の質も低下します。中国磁器の欧米への輸出は1840年に始まるアヘン戦争によってほぼ終結します。

中国の陶磁器の歴史資料
6500BC -- 1500BC  新石器時代   Neolithic  土器

1500BC --1050BC
  商   Shang  原始青磁(青銅器のコピー)  

1050BC -- 221BC
 周 Zhou

221BC -- 207BC 
泰  Quin 始皇帝の兵馬俑

206BC -- 220AD
 漢 Han 鉛釉陶器(墓用)

220 -- 280
 三国  Three Kingdoms 青磁の生産が始まる(越州窯) 

280 -- 420  
 晋  Jin            

420 -- 589
 南北朝  Southern & Northern 青磁の生産は華南一帯に広がり生活器中心になる

589 -- 618
 隋 Sui 白磁の生産が始まる

618 -- 906 
唐 Thang 越州窯(青磁)、長沙窯(青磁)、那窯(白磁)、唐三彩

907 -- 960
 五代  Five Dynasties

916 -- 1125
 遼 Liao
960 -- 1127  北宋 Song 定窯(白磁)、耀州窯(青磁)、汝官窯(青磁)、景徳鎮窯(白磁)

1115 -- 1234
 金 Jin 釣窯(青磁)、磁州窯(白釉)
1127 -- 1279 南宋 Song 龍泉窯(青磁)、建窯(天目)、吉州窯(天目)、景徳鎮窯(白磁)

1279 -- 1368
 元 Yuan 景徳鎮窯(白磁/青花)、龍泉窯(青磁)、吉州窯(黒釉)

1368 -- 1644
 明 Ming 景徳鎮窯(白磁/五彩・釉裏紅)

1644 -- 1911
 清 Qing 景徳鎮窯(白磁/粉彩・琺瑯彩)

1912 -- 1949
 中華民国  Republic

1949 --
 中華人民共和国
 People's Republic

実際の中国の年表は上記よりもっと複雑で、同じ時代にいくつもの国が存在する時代もあります。
上記は大英博物館の年表を中心に作成しました。

韓国の陶磁器の歴史

百済・新羅

土器の時代を経て、7世紀の百済では緑柚を施した陶器が焼造されています。9世紀の新羅時代に、中国の越州窯青磁の影響を受けて、朝鮮でも青磁が作られ始めました。

高麗 (918-1392)

12世紀になると中国の磁の影響を離れ、「翡色」と呼ばれる澄んだ青緑色の気品に満ちた高麗青磁が作られるようになり、透かし彫りなどのさまざまな装飾が加えられるようになります。12世紀後半には、象嵌技法が発達し、高麗青磁の中心的な装飾技法となりました。銅を含んだ顔料を用いることによって上品な紅色を発色する辰砂という技法や、釉下に鉄絵具で文様をあらわす青磁鉄絵も盛んに作られました。

しかし13世紀にモンゴル人の侵入が始まり、高麗青磁は高麗王朝の衰退と共にその姿を消します。

李氏朝鮮時代 (1392-1910)

李朝になると青磁に代わって、粉青沙器が中心になります。粉青沙器は灰色の胎土の上に白土を用いてさまざまな技法で装飾を施した陶器の総称です。高麗時代と比べて産地は大きく拡散します。

15世紀には象嵌や菊花文のスタンプを一面に押しそこに白土を埋めた印花という技法が盛んに施されます。

その後、刷毛を用いて白土を塗った塗跡がそのまま装飾になる刷毛目や、器表全面に塗られた白土を削り取って模様をあらわす掻落しの彫三島などが作られました。

また、15世紀から16世紀にかけて鉄絵具を用いて文様を描く鉄絵が盛んに行われました。16世紀後半になると、ほとんどの窯が白磁窯に転向していき、粉青沙器は姿を消してしまいます。

15世紀前半にはすでに雪のように白い上質の白磁が完成されていました。15世紀後半にはコバルト顔料を用いて青花磁器の焼造が始まっています。後にコバルト顔料の入手が困難になると、鉄絵具で鉄砂の技法が盛んに行われました。

16世紀末、豊臣秀吉の侵略によって、国全土が戦火にまみれ、各地の窯は大きな打撃を受けました。多数の陶工が日本に連行され、生産は著しく停滞しました。

1639年から1717年まで釜山にある窯で、高麗茶碗と呼ばれる日本の茶人向け(輸出用)の茶器が焼かれました。

19世紀後半になると外国勢力の侵入によって社会や経済は混乱し、国力は衰退して、朝鮮陶磁器の伝統は衰退の一途をたどっていきました。

日本の陶磁器

伊万里

ヨーロッパの王宮で見られる日本のやきものは伊万里です。そのほとんどが貞享、元禄、享保(1690年から1730年)に有田(佐賀県)で作られた古伊万里になります。トルコでは純金と同じ価値で取引され、ザクセン侯国のアウグスト王は十数個の磁器と数十人の兵士とを交換したという伝説もあります。

江戸時代は有田で作られ、近くの伊万里港から出荷されたやきものを伊万里と呼んでいましたが、明治時代以降は有田町で製作されたものを有田焼、伊万里市で製作されたものを伊万里焼と呼びます。

1610年ごろ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に連れてきた李朝の陶工によって、日本で初めての磁器生産が有田で始まりました。当初から鍋島藩では陶工に優遇措置をとるなどして磁器の生産に力を注いで来ました。

将軍や特定の大名への贈答品として藩窯で作られたものを「鍋島」といい、厳しい管理体制のもと、藩お抱えの絵師によって図案が考えられ、細部まで丁寧に描かれた格調高い製品ですが、一般には知られていませんでした。

輸出用伊万里は、「柿右衛門」といい、1640年に酒井田柿右衛門が始めた窯でつくられた磁器で、1659年にオランダ東インド会社から大量の注文を受け、ヨーロッパ輸出時代が始まります。オランダ側の注文に応じるため、成分配合など試行錯誤が繰り返され、純白の薄くて軽くて強い磁器が誕生しました。乳白色の素地に鮮やかな色彩で描かれた絵は日本人の眼にはあまり触れることなく、ヨーロッパへと輸出されました。オランダ東インド会社との輸出貿易は1757年で終わります。

1828年有田で大火事があり、多くの職人が有田の町を捨てて他の地域に移住してしまいます。それによって、各地で磁器の生産が始まることになりますが、一方有田では、優れた職人がいなくなり、品質は低下し、生産も落ち込みました。鍋島藩は復興に尽力をつくし、オランダとの貿易も再開しました。庶民生活に結びついた雑器の量産に方向転換すると同時に、輸出用製品には浮世絵や風俗絵を題材に扱ったものが作られました。

幕末・明治になってヨーロッパへの輸出が活発になってくると、元禄期に全盛を誇った金襴手(色絵の上から金彩を加える装飾)が再び脚光を浴びるようになり、元禄期のものと間違えられるくらい似ているものが作られました。

薩摩

サツマウェアで有名な薩摩焼(鹿児島県)の歴史は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に、約80人の朝鮮の陶工を連れて帰ることから始まります。
17世紀に白土を発見、「白もん」と呼ばれ、クリームがかった象牙色の地肌に色絵や金襴手を施した豪華なやきものが生まれます。細やかな透かし彫りの技術も見所で、花瓶、茶器、香炉などが作られました。江戸時代には薩摩藩主の御用品として焼かれ、一般の人の目に触れることはありませんでしたが、明治時代以降は海外に輸出され、高い評価を受けました。
また、火山灰や軽石が混ざり、鉄分が多く含まれた土による「黒もん」は、酒器や壷や甕など、素朴で丈夫な日用の器として親しまれています。

九谷

17世紀に焼かれた古い九谷焼は、実は九州の有田で焼かれていました。

加賀(石川県)の九谷焼は再興九谷と呼ばれ、1823年京焼の名工を招き、加賀藩の保護により、金沢市の春日山に窯を築かせたものです。紫、黄、緑、赤、青の五色を「九谷五彩」といい、華やかで、高度な絵付けの技術が発達しました。丹念に仕上げられた美術品で、一般的ではありませんでした。



千利休が茶の理想を追求し、実現する過程で誕生したのが、楽焼の茶碗です。モノトーンで絵付けもなく、ろくろを一切用いずヘラで削って形作っていく技法で、感触、形、色合いのすべてを茶人の好みに合わせ、精神性を追求しました。利休に指導されたという初代長次郎が豊臣秀吉から「楽」の印字を受け、やきものを楽焼、長次郎一族を楽家というようになりました。楽家はそれ以降400年間、京で最上の茶陶だけを焼き続けてきました。

美濃

現在美濃(岐阜県)は日本の陶磁器の大半を生産する大窯業地です。戦国時代に、信長、秀吉、家康と三代の天下人に使えた大名であり、利休の死後茶の世界の指導者的立場に立った古田織部は自由奔放で大胆な変化のあるやきものを好みました。織部の影響のもと、美濃の陶工と戦乱を避けて瀬戸から流れてきた陶工らによって、それまでにない斬新なスタイルの茶碗が作られるようになりました。ゆがみやひしゃげに美を見出すという感覚は日本だけのオリジナルです。

瀬戸

「せともの」の故郷、愛知県瀬戸市は現在でも陶磁器生産地です。古墳時代から窯が開かれ、平安時代には全国に先駆けて施柚陶器が作られていました。鎌倉時代には中国の陶磁器を手本にした高級な施柚陶器が焼かれ、全盛期を迎えます。しかし、戦国時代になると、瀬戸周辺は戦場になり、陶工は美濃に逃げてしまいます。江戸時代になって尾張藩が陶工を呼び戻し、江戸時代後期には九州で磁器の製法や染付けを学んだ加藤民吉がその技術を広めました。明治から大正にかけては建築材料となる陶器タイルも盛んに生産されました。大量生産で値段を手ごろにし、日用の器として愛され、特徴がないのが特徴です。

他にも、萩、信楽、益子、万古、常滑、備前、丹波、伊賀、唐津、などのやきものの産地があります。

中東の陶器の歴史

シルクロード唐の時代になると、中国各地の窯で陶磁器が盛んに作られるようになり、シルクロードを通って運ばれました。陶磁器の輸送にあたっては、海のシルクロードが主役を果たしました。重くて割れやすい商品の輸送には、陸路より海路の方が向いていました。しかし、当時の船は季節風を待って航海したため、中国とアラビアの間を往復するのに、普通は4年かかったそうです。海難も多く、輸送コストは高いものでした。ですから、磁器は同じ目方の黄金の器と交換されたなどどという伝説が生まれたくらいでした。中国の磁器は、イタリア商人によってヨーロッパに持ち込まれ、王侯貴族、高位聖職者、豪商だけが磁器を持つことができ、ステイタス・シンボルになっていました。

青花
シルクロードの中間地点のペルシアでは、何とかして中国と同じ白磁を作りたいと思い、いろいろとやってみましたが、どうしてもできませんでした。9世紀のアッパース朝では、陶器の全面に錫釉で化粧がけをして(焼くと錫釉は真っ白になる)、コバルトで絵付けをした、見た目は中国の「青花」のように見える陶器を作る方法を考え出しました。これは、イスラム文化と共にイベリア半島に伝わりました。

ラスター
ラスターとは「光沢」という意味です。9世紀にダマスカスで生まれヨーロッパではイスラム文化と共にイベリア半島に伝わって、12世紀ごろから盛んに作られるようになりました。透明な釉薬をかけて焼いた陶器(地はクリーム色)の表面に、酸化銅の粉末と黄土を練り合わせたもので絵付けをしました。偶像崇拝を禁じているイスラムでは、主に草花、文字(カリグラフィー=書体デザイン)、幾何学模様(アラベスク=植物文様をさらに抽象化したものです)を描きました。もう一度窯に入れ、還元炎(窯の温度が上がってから空気の供給を少なくし、黒い煤がうんと出るようにした炎)で焼きます。酸化銅は還元され、金属銅の微粒子になって、透明な有益の表面に固着します。それが光線の加減や、見る方向によって、赤っぽい金色にか彩至り、玉虫色に微妙に色調を変えたり、暗褐色に見えたりします。豪華に見えるため、昔は王侯貴族の間で人気がありましたが、日用に使っていると絵付けが次第に剥げ落ちてきて、ラスターの意義がなくなってしまうので、大事な客をもてなすときにだけ使って、普段は壁に飾っておいたそうです。建築で壁面タイルなどにも利用されています。特にアルハンブラ宮殿が有名です。


タイル11世紀から12世紀にかけて、セルジューク朝のペルシャでは、モスクを飾るために多種多様な陶器が生産されるようになりました。色も青や藍、緑だけでなく、黄色、赤、黒、茶色と増えていき、何種類ものタイルを所定の形に切り刻んで集成するというモザイクがつくられました。13世紀から14世紀には、星型や十字型、花や鳥を文様化した鮮やかなタイルもつくられました。


青磁

15世紀のエジプトでは、透明度、うわぐすりなどの面で中国技法の模倣に成功し、イスラム青磁を大量に生産しました。


イズニック

16世紀のオスマントルコでは、鉄分の多いアルメニア粘土による赤色の顔料が加わり、イズニックを中心に独創性に富んだ陶器が生産されています。

西洋の陶磁器の歴史