伊万里
ヨーロッパの王宮で見られる日本のやきものは伊万里です。そのほとんどが貞享、元禄、享保(1690年から1730年)に有田(佐賀県)で作られた古伊万里になります。トルコでは純金と同じ価値で取引され、ザクセン侯国のアウグスト王は十数個の磁器と数十人の兵士とを交換したという伝説もあります。
江戸時代は有田で作られ、近くの伊万里港から出荷されたやきものを伊万里と呼んでいましたが、明治時代以降は有田町で製作されたものを有田焼、伊万里市で製作されたものを伊万里焼と呼びます。
1610年ごろ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に連れてきた李朝の陶工によって、日本で初めての磁器生産が有田で始まりました。当初から鍋島藩では陶工に優遇措置をとるなどして磁器の生産に力を注いで来ました。
将軍や特定の大名への贈答品として藩窯で作られたものを「鍋島」といい、厳しい管理体制のもと、藩お抱えの絵師によって図案が考えられ、細部まで丁寧に描かれた格調高い製品ですが、一般には知られていませんでした。
輸出用伊万里は、「柿右衛門」といい、1640年に酒井田柿右衛門が始めた窯でつくられた磁器で、1659年にオランダ東インド会社から大量の注文を受け、ヨーロッパ輸出時代が始まります。オランダ側の注文に応じるため、成分配合など試行錯誤が繰り返され、純白の薄くて軽くて強い磁器が誕生しました。乳白色の素地に鮮やかな色彩で描かれた絵は日本人の眼にはあまり触れることなく、ヨーロッパへと輸出されました。オランダ東インド会社との輸出貿易は1757年で終わります。
1828年有田で大火事があり、多くの職人が有田の町を捨てて他の地域に移住してしまいます。それによって、各地で磁器の生産が始まることになりますが、一方有田では、優れた職人がいなくなり、品質は低下し、生産も落ち込みました。鍋島藩は復興に尽力をつくし、オランダとの貿易も再開しました。庶民生活に結びついた雑器の量産に方向転換すると同時に、輸出用製品には浮世絵や風俗絵を題材に扱ったものが作られました。
幕末・明治になってヨーロッパへの輸出が活発になってくると、元禄期に全盛を誇った金襴手(色絵の上から金彩を加える装飾)が再び脚光を浴びるようになり、元禄期のものと間違えられるくらい似ているものが作られました。
薩摩
サツマウェアで有名な薩摩焼(鹿児島県)の歴史は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に、約80人の朝鮮の陶工を連れて帰ることから始まります。
17世紀に白土を発見、「白もん」と呼ばれ、クリームがかった象牙色の地肌に色絵や金襴手を施した豪華なやきものが生まれます。細やかな透かし彫りの技術も見所で、花瓶、茶器、香炉などが作られました。江戸時代には薩摩藩主の御用品として焼かれ、一般の人の目に触れることはありませんでしたが、明治時代以降は海外に輸出され、高い評価を受けました。
また、火山灰や軽石が混ざり、鉄分が多く含まれた土による「黒もん」は、酒器や壷や甕など、素朴で丈夫な日用の器として親しまれています。
九谷
17世紀に焼かれた古い九谷焼は、実は九州の有田で焼かれていました。
加賀(石川県)の九谷焼は再興九谷と呼ばれ、1823年京焼の名工を招き、加賀藩の保護により、金沢市の春日山に窯を築かせたものです。紫、黄、緑、赤、青の五色を「九谷五彩」といい、華やかで、高度な絵付けの技術が発達しました。丹念に仕上げられた美術品で、一般的ではありませんでした。
楽
千利休が茶の理想を追求し、実現する過程で誕生したのが、楽焼の茶碗です。モノトーンで絵付けもなく、ろくろを一切用いずヘラで削って形作っていく技法で、感触、形、色合いのすべてを茶人の好みに合わせ、精神性を追求しました。利休に指導されたという初代長次郎が豊臣秀吉から「楽」の印字を受け、やきものを楽焼、長次郎一族を楽家というようになりました。楽家はそれ以降400年間、京で最上の茶陶だけを焼き続けてきました。
美濃
現在美濃(岐阜県)は日本の陶磁器の大半を生産する大窯業地です。戦国時代に、信長、秀吉、家康と三代の天下人に使えた大名であり、利休の死後茶の世界の指導者的立場に立った古田織部は自由奔放で大胆な変化のあるやきものを好みました。織部の影響のもと、美濃の陶工と戦乱を避けて瀬戸から流れてきた陶工らによって、それまでにない斬新なスタイルの茶碗が作られるようになりました。ゆがみやひしゃげに美を見出すという感覚は日本だけのオリジナルです。
瀬戸
「せともの」の故郷、愛知県瀬戸市は現在でも陶磁器生産地です。古墳時代から窯が開かれ、平安時代には全国に先駆けて施柚陶器が作られていました。鎌倉時代には中国の陶磁器を手本にした高級な施柚陶器が焼かれ、全盛期を迎えます。しかし、戦国時代になると、瀬戸周辺は戦場になり、陶工は美濃に逃げてしまいます。江戸時代になって尾張藩が陶工を呼び戻し、江戸時代後期には九州で磁器の製法や染付けを学んだ加藤民吉がその技術を広めました。明治から大正にかけては建築材料となる陶器タイルも盛んに生産されました。大量生産で値段を手ごろにし、日用の器として愛され、特徴がないのが特徴です。
他にも、萩、信楽、益子、万古、常滑、備前、丹波、伊賀、唐津、などのやきものの産地があります。